大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪家庭裁判所 昭和56年(家)414号 審判

四一四号事件 申立人 水上章子

四一五号事件 申立人 田山博雄

四一六号事件 申立人 田山一郎

一四九〇号事件 申立人 杉本俊二

一四九一号事件 申立人 杉本花江

一五三五号事件 申立人 学校法人○○○○医科大学

一五三六号事件 申立人 社団法人○○会

一五三九号事件 申立人 山野福二

一五八八号事件 申立人 三浪信次

一五八九号事件 申立人 仲本治

一五九○号事件 申立人 辻田右兵衛

一五九一号事件 申立人 冬木守次郎

一五九二号事件 申立人 頭師浩子

被相続人 岡崎直枝

主文

一  申立人杉本俊二及び同花江に対し、被相続人の残余財産中よりそれぞれ金一〇〇万円宛を分与する。

二  申立人○○○○医科大学に対し、被相続人の残余財産中より上記一の金員を除いた残余の財産全部を分与する。

三  その余の申立人の本件各申立はこれをいずれも却下する。

理由

一  本件各記録及び関連する当庁昭和五三年(家)第二八三五号事件記録中の戸籍謄本その他の証拠資料、相続財産管理人作成の相続財産目録及び報告書、当庁調査官の調査結果、並びに申立人本人(ただし、申立人山野を除く)及び申立人法人代表者の各審問の結果を総合すると、大要、以下の事実が認められる。

1  被相続人岡崎直枝は、明治三五年四月二五日、大阪市北区で、父井上喜三郎と母同うめとの間の長女として出生し、その後、大正七年八月一六日、岡崎三吉夫婦の養女となつた。長じて大阪府立○○○高等女学校を経て当時の○○○○医学専門学校(現在、○○○○医科大学)に入学、大正一三年に同校を卒業し、医師となり、○○○○○○病院や○○病院に勤務した。

被相続人は、上記のように岡崎三吉夫婦の養女となつたものの、実際の生活は実父母と共にし、生涯結婚しなかつたため、父喜三郎が昭和一四年一〇月一八日死亡後は母うめと二人暮しが長く続き、同女が昭和四八年九月七日死亡してからは独り暮しであつた。昭和五三年三月下旬、○○病院に入院し、同年九月一六日、脳血栓により死亡した。被相続人死亡当時、実父母も養父母も此の世になく、兄弟もその子らも存せず、相続人は無かつた。そして、昭和五五年七月二三日、相続権主張の催告手続がなされたが、催告期間内に相続権を主張する者は皆無であつた。

2  なお、被相続人の相続に関しては法定の方式を完備した遺言書は存しなかつた。しかし被相続人は、遺言書作成の過程において急逝したものであるが、その遺言書案として下記のようなものが残存していた。

すなわち、用紙は、原稿用紙二〇×二〇のものが使用されている。標題は、遺言書(案)と記載されている。住所として被相続人の最後の住所地が、遺言者として被相続人の氏名が表示され、前文として遺言者には相続人となるべき者がないから遺産の処分につき遺言する旨が記載され、第一から第六条まで条文化され、本文末尾に遺言者として被相続人の氏名が記載され、財産目録第一及び第二が添付されている。本文には日付の記載も氏名下の押印もない。氏名の記載は被相続人本人の自署ではないと思われる。第一条は遺産の範囲について、第二条は祭祀の承継者の指定等について、第三条は財産を換金処分することについて、のものである。祭祀承継者については何人の氏名も記載がない。第四条は生存中世話になつた者について金員を遺贈し謝意を表したい旨の文言となつている。遺贈金額と住所氏名欄があり、同所に鉛筆による書込みがある。条文の文字とは別の手になるものである。何人の書込みかは詳らかになし難い。第四条の〈5〉として「残余の金員は、遺言者が学んだ私立○○○○医科大学に、同大学学生に対する奨学金の基金として寄附したい。同大学内に岡崎育英基金(仮称)の設置をお願いしたい。」との記載がある。第五条は、受贈者が死亡したときや○○○○医科大学が寄附を拒否したときの処置についての指示が書かれ、第六条は遺言執行者の指定に関するものであるが、具体的な住所氏名の記載はない。

上記遺言書(案)は、被相続人より、生前、その財産の管理運用の相談を受けていた三浪信次及び医師である友人として長年交際してきた山野福二とが被相続人の病気入院の機会に、その作成方を説得し、同意を得た上、三浪の関係する○○銀行信託部の職員に調査立案させたものである。被相続人の遺産処分に関する主たる意思は、遺産の大部分を出身校である○○○○医科大学に寄附し、同大学生の奨学金の基金として役立てたいというものであつたと認められる。

3  第四一四号ないし第四一六号事件関係

(一)  申立人水上章子及び申立人田山博雄は姉弟であるところ、両名の母田山いくと被相続人の実母うめとは異母姉妹であり、章子と博雄は被相続人とは従姉弟妹の関係にある。また申立人田山一郎は博雄の長男である。

(二)  章子は、○○高等女学校卒業後、昭和一一年頃から約三年間京都市内の織物会社で働いていたことがあるが、当時、章子は休日などには度々大阪市内の被相続人方を訪れていた。芝居見物に連れて行つて貰つたこともある。

昭和一五年一月頃、被相続人が腎蔵病で自宅療養をしていた際には約三ヶ月間、章子はその看病に当つたことがある。その後章子が、結婚することとなつたとき、被相続人は大へん喜んでくれ、お召の着物やハンドバツク等を買与えてくれたことがある。結婚後も被相続人母子との交際は続き、昭和一六年頃、章子の家に来て泊つたことがあり、戦時中食糧不足の頃には章子は被相続人方へ芋や砂糖などを送つたこともある。戦後も交際は続き万国博覧会の際には章子と二男とで被相続人方に泊つたこともあり、四季折々の文通も続いていた。

被相続人が昭和五三年三月○○病院へ入院したことは博雄から知らされたが、当時、夫明が難病で療養中であり、その看護に追われ、遂に見舞や看病には行かなかつた。しかし、葬式やその後の法事には参列した。

(三)  博雄は、実母いく及び実父丸次郎を相次いで早く失つたため、被相続人の母うめが、その生活や進学のことに深い配慮をしてくれた。博雄が昭和一五年三月○○商業学校を卒業する際には、被相続人が就職について面倒を見てくれて大阪市内の大手の化学工業会社に斡旋をしてくれた。それ以後、昭和一七年四月兵役のため大阪を離れるまで会社の寮で生活をしていたが、休日を利用しては被相続人方を訪れ、雑役や力仕事などをして女世帯である同家に喜んで貰つた。博雄は、入隊後も機会ある毎に被相続人方を訪れていた。被相続人はその度に博雄を励ましてくれたし、また敦賀市内の留守宅のことも気に掛けて貰つた。

博雄は、終戦後は敦賀市内で生活することになつたが、昭和三〇年四月結婚した際、妻とともに被相続人方を訪れ、交誼を求めたところ、被相続人母子より御祝儀やお祝の品物を贈られたことがある。妻弘子が、昭和三六年九月、心臓病のため○○○○病院に入院したときには、被相続人母子が見舞に来てくれたことがある。長女満代の大学進学について心配してくれたこともある。昭和四八年、被相続人の母うめが病気となり、同年九月、九六歳で死亡した際には敦賀より上阪して見舞に行き、また葬式や法事にも出席した。

長男一郎が、昭和五一年三月、大学卒業するに当り被相続人に就職のことを相談したところ、大阪市内での就職をすすめられ、その斡旋により○○信用金庫に入社することができた。

(四)  被相続人が、昭和五三年三月二二日、○○病院に入院したことは三週間程経つてから初めて被相続人の隣人の杉本俊二から知らされた。三回見舞に赴いた。

九月一五日の見舞のときは、被相続人の病状が悪くなつたと言う連絡であつたので急いで上阪したが、小康状態となつたのでもう一度出直すべく帰郷の途中、容態が急変し、翌一六日死亡するに至つた。葬儀には参画者の一人として出席し、その後の法要や満中陰・納骨等の世話もした。

(五)  申立人一郎は、大学卒業に当り、被相続人の尽力により○○信用金庫に入社することができたことは上記のとおりである。入社後も、博雄や一郎とともに被相続人が上記信用金庫の幹部の自宅を訪れて一郎の将来を頼んでくれたことがある。一郎は、信用金庫の寮で生活していたが、体日にはよく被相続人方を尋ね、力仕事などの手伝をして喜ばれた。大阪市内や京都市内の観劇に連れて行つて貰つたこともあり、被相続人のお供をして、○○○寺の岡崎家の墓にお参りに行つたこともある。

被相続人が○○病院に入院するに当たつては、豊中市の自宅の留守番を依頼され、一郎は、この期間、寮より上記豊中市内の家に移り管理に当つた。見舞にはあまり行かなかつた。

4  第一四九〇号及び第一四九一号事件関係

(一)  申立人杉本俊二と同花江とは夫婦であるが、いずれも被相続人とは血縁関係はない。

(二)  申立人俊二夫婦は、被相続人が、昭和四四年春頃、大阪市東成区○○町から豊中市○○(最後の住所)に自宅を新築し転居してきた頃知合つた。被相続人が旧○○○高等女学校の出身者であるところから、上記転居に際し、同校同窓会豊中支部長であつた川口住代から同じく同校の出身者である申立人花江に紹介し、土地不案内の被相続人母子のために相談相手になつてくれるように依頼されたことによるものである。俊二宅と被相続人の住居とは約×××メートルほどの距離であつた。家を新築中から話し合つたりしたし、引越しの手伝などもした。爾来、親しく交際するようになつた。

被相続人も度々俊二宅に赴くし、また俊二夫婦も被相続人方に出向いて行き、遠慮や気兼ねなく話し込んだりした。家の白蟻の駆除のこととか、植木の手入れとか。日常の生活上のことを何でも話合い、相談し合つた。贈物をしたり貰つたりしたこともある。

被相続人の母うめは昭和四八年に死亡したが、花江は同女の臨終に立会つた。被相続人は、親孝行であつたので、母の死に大へん力を落していたが、その葬儀の際には、俊二夫婦でその手伝をし、被相続人を慰めた。うめの法要や満中陰後のお返しの品選びなども手伝つた。

母うめが死去して被相続人が独りの暮しをするようになると、淋しさをまぎらわせてあげるために、俊二夫婦が被相続人方に往来することが多くなつた。被相続人は我儘な性格で口やかましいところがあつたので、お手伝さんが永続きせず、またお手伝さんと衝突することがあつたが、俊二らが仲裁をしてなんとか収めることがよくあつた。少々気を使うような人が被相続人宅を訪問して来るようなときは、俊二や花江が頼まれて同席したり接待の手伝をすることもあつた。

被相続人は、昭和五三年三月二三日、身体の不調を訴えて○○病院に入院したが、その前夜遅く花江宛に電話があり、明朝入院するので加勢して貰いたいと頼まれた。花江は当日は他に用件があつたがそれを取り止め俊二と二人で被相続人方に赴き荷物を作つたりして準備をし、病院まで附添つて行き必要品を購入したりして入院を手伝つた。病院の許可を得て附添婦をつけることにしたが、附添婦が来てくれるまでの約一週間、花江と知人の原附美子とが交替で世話をした。被相続人が病院の食事に手をつけないので、別に食事を作つて持つて行つたりした。また、主治医や婦長などへの付け届も滞りなく済ませた。

入院のことは、被相続人の頼みであまり方々へ知らせるなということであつたので、当初は医師の山野福二と上記原附の二人だけに知らせた。

入院中の出納関係は、上記山野と相談の上、俊二が被相続人より金員を預り、豊中市の自宅の維持費、入院費、治療費、附添婦の手当、雑費等を支出し、一ヶ月毎にその明細と領収書等を山野に検閲して貰うことにしていた。

被相続人が入院中は、俊二と花江とが二人で、あるいは交替で隔日位に病院に食物を持つて行つたりして見舞つた。

被相続人は、同年九月一六日、容態が急変して死亡した。その前日の一五日朝、排尿の際倒れたとの知らせであつたので、俊二と花江とで病院に急行し、親族の田山博雄などに連絡した。その後小康状態となつたので、引揚げ一六日朝再び二人で病院に行つた。被相続人の容態は前日よりも良いように見受けられたが、その日午後三時頃急変し、俊二と花江とに見とられながら往生した。俊二と知人の三浪信次とが被相続人の遺体を豊中市の自宅に搬送し、花江は病室の後片付をした。田山や山野などと話合い俊二が主になつて、お通夜や葬儀の世話をした。また、葬式費用等についても一三〇万円程立替えた(しかし、既に返済を受けた。)。その後の法要や納骨、満中陰などの仏事も田山らの依頼により俊二がこれを行つた。

5  第一五三五号及び第一五三六号事件関係

(一)  申立人○○○○医科大学は、吉森皐月によつて明治××年創始された○○○○医学校をその前身とするものであり、○○○○医学専門学校を経て現大学となつたものである。その間一貫して女子の医学教育と付属病院における医療活動を行つてきた。

(二)  申立人○○会は、○○○○医学校、○○○○医学専門学校及び○○○○医科大学の卒業生を会員とする同窓会組織の法人である。明治四三年に発足した校友会をその前身とするものであり、その後大正一五年社団法人として組織され、爾来、同窓会としての母校の後援活動、会員間の連絡及び相互扶助などのほか、病院を設置し、低所得者に対する医療活動などの社会福祉事業を行つている。

(三)  被相続人は、大正一三年に上記○○○○医学専門学校を卒業後、医局に残つて細菌学を研究し、その後長年にわたり○○○○○○病院等に勤務した後定年で退職したものである。

上記各学校に学んだ卒業生はいずれも母校愛が強く、創始者吉森皐月の女子医学教育の精神を奉戴してその発展拡充に献身する者が多い。被相続人も母校に対し愛着を有し母校の発展に強い関心を寄せていた。母校に対する後援事業などにおいては毎回多額の寄附をしていた。

(四)  被相続人は、卒業生の一人として○○会の会員であつた。○○会の会員は、同会が行う特定の事業の際の募金を協力するほか、死去の場合その遺族から遺産中より寄附を受けることが多かつた。そして、上記学校関係者においては、そのようなことが極く自然に行われるような空気がある。

被相続人も同期の者に対し遺産の中から大学や○○会に寄附する旨の遺言をしておきたいとの考えを洩したことがあると聞いている。

被相続人は、○○会関西支部の会員である。同支部は同会○○○○病院を設置して産婦人科の医療活動を行つているところ、被相続人はこうした活動にも積極的に協力してくれた。

被相続人は○○会の総会や関西支部の行う行事にも欠かさず出席していた。

6  第一五三九号事件関係

(一)  申立人山野福二と被相続人は、昭和二三年頃から昭和四三年頃まで、○○○○○○病院や○○病院で共に医師として勤務した仲である。その後の死亡に至るまで前後約三〇年間にわたり、友人として被相続人より公私にわたり相談を受け、申立人も助言や協力を惜しまなかつた。

被相続人家の跡継ぎの問題、養子の問題や大阪市城東区○○に在つた旧宅の処分の問題などについて相談を受け助言をしたことがある。豊中市○○に新築する際には見舞金を贈り、また転居の手伝をした。

被相続人の家ではお手伝さんが居着かずよく変つたが、お手伝さん探しの相談を受けたこともある。

(二)  被相続人が○○病院に入院してからは、病状診断や処置方法について主治医の相談相手となり、被相続人とのパイプ役を果した。

週に二、三回は病院に見舞に行つた。

被相続人の入院中の諸費用の出納については、上記杉本らと協議し、支出は杉本が当り申立人がその監査をするという方式をとることにした。

(三)  申立人や三浪が、従前から被相続人に遺言書を作るように説得していたが、被相続人が入院してから遺言書案の作成にかかつた。

遺言書の作成の過程で話題になつた被相続人の意図というのは、財産は母校の○○○○医科大学に寄附して財団を作つて貰うことが一番であり、残りは然るべく処分するというようなことであつた。しかし、被相続人が予想に反して急逝したため、遺言書の作成は未完成に終つた。

(四)  被相続人の葬儀は、申立人も参画者の一人として三浪や杉本らとともにこれを執り行つた。

7  第一五八八号事件関係

(一)  申立人三浪信次は、その父が大阪市に奉職していた関係などから被相続人とは従前より面識があつた。

(二)  被相続人は、従来、自己の財産の運用等を○○○○○○○公社○○長浜田友美に相談していたが、同人の死亡後、昭和五〇年頃からは申立人三浪に相談するようになつた。

申立人は、個人の資格というよりも、当時役員をしていた○○銀行の○○部として被相続人の資産の管理、運用の相談にあずかるようになつたものである。しかし、個人として資産運用について意見を開陳したこともある。

(三)  ところで、被相続人が入院するようになつてから、万一のことを慮り遺言書の作成方の世話をしたことがある。申立人と上記山野とで関与した。被相続人は遺言書の作成については、あまり積極的ではなかつたが、申立人と山野とで被相続人を説得し話合いながら案を作り始めたが、被相続人が急逝したため未完成に終つた。その内容とするところ、被相続人の主たる意思は遺産の大部分を母校である○○○○医科大学へ寄附し岡崎直枝基金という名称で財団を構成したいということであつた。

(四)  被相続人の葬式は、主として上記杉本や山野と申立人三浪が執行し、○○銀行○○部の職員が協力した。また、葬式費用や満中陰の費用については、申立人が一時立替え、これによつて滞りなく法要を行うことができた。

8  第一五八九号事件関係

(一)  申立人仲本治の父方の祖母糸川まりと被相続人の父方の祖父とが兄弟であり、したがつて申立人仲本と被相続人とは「またいとこ」の関係にある。また、申立人仲本は、申立人辻田、同冬木及び同頭師と従兄弟姉妹の関係にある。

(二)  申立人仲本は、小学生の頃、当時○○商業学校の教員をしていた被相続人の父井上喜三郎に進学の指導を受けたことがある。申立人が○○医学専門学校四年生のときに○○○○○○病院に実習に行つたが、当時既に被相続人が同病院の医師をしていたが、相互に親族関係があることを知らなかつた。申立人の祖母糸川まりが死亡したときに被相続人が参列しており、初めて相互の関係を知つた。その後申立人の父が○○○○議員になり○○○病院に関係するようになつてから、被相続人もよく申立人方に出入りするようになつた。申立人の父が被相続人に見合をさせたこともあつた。

申立人は、戦時中軍医で従軍し、復員してから、一時○○○病院に勤め、更に大阪市内の診療所に転じ昭和二八年に現在地で開業したが、その間はあまり交際がなかつた。

(三)  被相続人が、城東区○○から豊中市○○に移つた際、新居に招待してくれた。それ以来、申立人の妻は月二、三回は被相続人宅を訪れていた。

申立人が被相続人にある医者との結婚をすすめたこともある。また、養子のことを世話しようとしたこともある。

(四)  被相続人が○○病院に入院したという連絡を受けてから、二、三度見舞に行つた。食事を作つて持つて行つたこともある。

9  第一五九〇号事件関係

(一)  申立人辻田右兵衛の父方祖母糸川まりが被相続人の父方祖父井上多三郎と兄妹であり、申立人は被相続人と「またいとこ」の関係にある(ただし、戸籍簿上は若干明確を欠く。)。

(二)  上記のような関係で、申立人の父辻田熊吉や祖母まりの時代には井上家や被相続人家とも交際が多かつた。

父や祖母の葬儀には、被相続人が来たことがあるらしい。

(三)  申立人は、被相続人より年下である関係からして被相続人が死去する以前七、八年位の交際である。被相続人は身寄りが少いため、申立人とも親戚付合いをしようかということになつたようである。被相続人が豊中市○○の家に新築した際には新居に呼んでくれたことがある。

また、申立人は、被相続人の母うめが死亡したときに葬式に参列したことがある。

10  第一五九一号及び第一五九二号事件関係

(一)  申立人冬木守次郎と申立人頭師浩子とは兄妹であるが、申立人らの母冬木フミの母糸川まりと被相続人の父方祖父井上多三郎が兄妹であつた。多三郎が本山家から井上家に養子に行き被相続人の父井上喜三郎を儲けた。したがつて、申立人らと被相続人とは、「またいとこ」の関係にある。

(二)  申立人冬木の場合は、男性である関係から妻吉子が申立人頭師とともに被相続人と交際していた。申立人冬木は、被相続人の入院のことは入院一ヶ月後位に仲本夫人から知らされたが見舞には行かなかつた。

被相続人の葬式には用件があり行けず、妻吉子が参列した。

(三)  被相続人の所では、お手伝さんが長く続かないため、お手伝さんがやめて帰ると、被相続人から申立人頭師に後任のお手伝さんを探してくれるよう相談や依頼がよくあつた。申立人頭師も被相続人方に赴き老母うめの世話などをしたことが度々あつた。申立人頭師の娘信子の結婚式の際や夫隆一郎の葬式のときには被相続人が出席したり、香料を貰つたりしたことがある。年賀状も交換してきた。

(四)  被相続人の入院のことは仲本夫人から聞かされたが他に用件があり見舞うことができなかつた。被相続人が死亡したことは当日報せを受けた。葬式には申立人冬木の妻吉子とともに参列した。その後の四九日や一〇〇日の法要には大阪市城東区○○にある菩提寺の○○寺に参詣した。

11  遺産の概略は別紙目録(ただし、第二動産を除く。)のとおりである。

二  上記認定事実のほか、審理の結果認められる本件諸般の事情を総合して検討する。

本来、民法九五八条の三にいう特別縁故者については、抽象的な親族関係の有無、遠近ではなくて具体的実質的な縁故の内容、濃淡を基準として判断すべきものである。被相続人と申立人ら各自の具体的な生活関係の実質如何による。

ところで、申立人水上、同田山博雄、同一郎、同仲本、同辻田、同冬木及び同頭師はいずれも被相続人との間に血縁関係があり俗にいう親族としての交流があつたことは明らかであるけれども、血縁関係にある者としての通常の交際の範囲を出づるものではなく、上記条項にいう、被相続人と生活を共にしたとか、その療養看護に努めたとか、それに準ずるような特別な縁故があつた者とは到底認め難い。申立人山野は被相続人とは三〇年来の友人としての親しい交流があるけれどもそれとても特別な縁故関係がある者とは言い難く、また申立人三浪はその交際の実質からみても特別な縁故があつた者とは認め難いことは明らかである。申立人杉本俊二及び花江は、被相続人が昭和四四年春頃、豊中市○○(最後の住所)に転居して以来、隣人として往来し、約一〇年にわたり日常の諸事について被相続人の相談に預り世話をし、また被相続人の病気入院に当つては身の廻りのことや、入院費の支出、管理等の経理のことや、食事を作つて持参するなどの療養看護の補助をなし、被相続人の死亡時には、たまたま病院で臨終に居合せその死水をとることになるなどの奇縁があつた者であり、被相続人の葬式の主たる参画者としての役割を果したものであるから、上記法条にいう特別縁故者と認めるのが相当である。この場合、申立人両名は夫婦として共同して行動しているから一体として特別縁故関係にある者と認めるのが相当である。

次に、申立人○○○○医科大学及び同○○会については、被相続人が大学の卒業生であり母校に対し愛情を抱いていたとか同窓会の会員として寄附を行つたり、後援活動をなしたり、その他行事に参加協力したという一事を以つてしては、被相続人との特別縁故関係を論ずるに足りないものである。しかしながら、特別縁故者への財産分与の制度は、遺言による財産処分すなわち遺贈を補充する趣旨のものと解することができるのであり、果されなかつた被相続人の生前意思の実現をもその根拠とするものということができるところ、この面よりすると、被相続人は完成された遺言書こそ残さなかつたけれども、遺言書作成の過程にあり、被相続人の意思は財産の大部分を母校である申立人○○○○医科大学に寄附し、岡崎育英基金(仮称)と称する財団を設立して同大学の学生の奨学金の基金として役立てたいとするものであつたことが看取できるから、申立人大学は被相続人と特別の縁故がある者と認めるのが相当である。申立人○○会に対しては被相続人が如何なる意思を有していたかは忖度することができない。

よつて、上記のような縁故関係の内容、濃淡、特別縁故者の性別、職業、遺産の種別、額、所在などの事情を参酌した上、申立人杉本俊二夫婦及び申立人○○○○医科大学に対し、被相続人の残余財産中より主文掲記の財産をそれぞれ分与することとし、その余の申立人の本件申立はいずれも理由がないものとして却下することとし、主文のとおり審判する。

(家事審判官 諸富吉嗣)

相続財産目録〈省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例